だま ―僕らは異界を求めてる?―

 ゲゲゲの鬼太郎という妖怪が主人公という主人公の漫画がある。作者の水木しげるさんは亡くなられたが、今も根強い人気があるようだ。この漫画には鬼太郎をはじめ、ネズミ男、ネコ娘、一反木綿、ヌリカベ、といろんな妖怪が出てくるが、中でも目玉おやじというキャラクターが強い印象を残す。鬼太郎の父親である目玉おやじは目玉に胴体がついているというグロテスクな見かけなのだが、その身体の小ささ故か、なんだか愛らしい。

 ゲゲゲの鬼太郎だけではなく、妖怪変化の話が僕は昔から妙にすきだ。どうやらそれは僕だけではないらしい。『鬼滅の刃』など異界に生きる存在が出てくるアニメや漫画が社会現象となるほど人気が出ている。こうした魑魅魍魎に普通の社会に生きている我々はどうしてか興味を惹かれてしまうようだ。

 河童についての企画展が博物館であったから、いそいそと出かけた。河童にスポットを当てた変わった展覧会だなと思って行ったのだが、結構、見に来ている人が多かった。

 僕は川を研究のフィールドのひとつとしているので、河童にはずっと興味があった。河童にはどうして頭に皿があるのか、どうして相撲をとったり、キュウリが好きだったりするのか、謎だらけで、面白い。その企画展では昔からの河童に関する資料がたくさんあって、どれも面白くて飽きなかった。僕が謎と感じていた事に対する答えもはっきりしたものがなくて、逆に少し安心した。

 それにしても、どうして僕たちは妖怪変化に興味をそそられるのだろうか?

 それは身近にあったはずのよくわからない場所、異界というものが昨今、普通の生活では感じられなくなったせいではないかと思う。夜になっても街は灯りで照らされ、異界どころか闇を探すのが難しいほどだ。僕らは本能的に異界にアクセスしたいという感情を持っていて、異界の不気味さ、不思議さというものを時には感じたいのではないだろうか。

 異界というものはどこにあるのだろうか?それは自然と人間の境界にあるのではないかと僕は思う。妖怪も鬼も自然と人間の社会の隙間にひっそりと生きている存在であるような気がする。そういう意味で、自然と人間の関係について考えることが多い環境研究の世界と近いものがあるのではないだろうか?そのせいか分からないが、僕は異界の存在である妖怪変化の話にすごく興味がある。

 全てが分かりきった、かっちりした世界では僕たちは窮屈できっと生きていきにくい。

 何が起こるか分からない世界は不安だ。しかし、だからこそ希望を持つことができるのかもしれない。

 異界というものは僕たちの希望の扉なのかもしれない。