ねんど ―土と僕たちの関係―
都会で生活していると、ほとんど土の上を歩いていない自分にふと気がつき愕然とする。一日中、土の上を歩かないという日も決して珍しいことではない。街はアスファルトやコンクリートで敷き詰められ、公園の遊歩道までご丁寧にコンクリートがかぶせられている。
土を踏まずに生活をするというのは人間にとって正しいことではないように思う。少なくとも人間の長い歴史の中で、そのようなことが有り得るようになったのは本当にここ最近のことではないだろうか?
そうした中、人と土の距離が(少なくともコンクリートの厚さくらいは)遠くなり、人の土に対する興味は薄まってきているように思える。土地の値段の上下には、また所有している土地の大きさには異様なほどの関心を持つ人がいようが、その土地を形成している土について心を向ける人がどの程度いるだろうか?
かく言う私も土のことなど全く関心を持たない大人として10年近く生きてきていた。もっとも子供のころは砂遊びや泥遊びが大好きだった。家の庭の地面を掘っているとすぐ粘土質の土が出てくるので、それで粘土の象を作ったり、キリンを作ったりした。しかし、いつのまにか土に対する興味を失っていた。物心ついてからは、土を踏むことを実感するのは夏の海水浴で砂浜を歩くときくらいだっただろうか。焼け付く浜を大騒ぎしながら走った。足の裏で感じる熱さが僕にとって、一年を通じて土を感じる唯一の時だったと言っていいように思う。しかし、そんな土との希薄な付き合いにも終止符が打たれる時が来た。就職した職場で土壌の分析を担当することになったのだ。最初はそれほど興味を持つこともなく土を掘り、触り、分析を行っていた。土は飯を食うために付き合わなくてはいけない物質のひとつに過ぎなかった。しかし、仕事を重ねているうちにだんだんと土の持ついろいろな顔を知るようになってくる。地層が美しい色合いの縞模様を見せてくれたり、地下水が出てきたり、化石が出てきたりした。気がついたら土のことが気になって仕方なくなっていた。土の世界というのは何とも複雑で、謎に満ちた面白くて仕方のない場所だった。
僕が子供の頃、触っていた粘土は、今から考えると場所と標高から考えて、MA3層と名付けられている海成粘土層(海の底で形成された粘土の地層)だったと思う。知らないうちに4万年も前に海底で降り積もった粒子の固まりに触れていたのだ。
そう考えるとなんだかロマンを感じる。
気がついていないだけで、僕らの周りはきっとそんなロマンで溢れているのだろう。