じぶくろ -不便≠不幸―

 お店で買い物をする際、レジ袋をタダでもらえなくなって、しばらく経つ。資源の無駄遣いを無くす、プラスチックごみの環境への拡散を防ぐ、二酸化炭素の排出を減らす、という触れ込みで決まったことだと思うのだが、どの程度、資源の無駄遣いが減り、プラスチックごみが減り、二酸化炭素の排出削減に効果があったのかは曖昧だ。一方でレジ袋がタダでもらえないことで生活の中で生じた不便さはクリアーに感じることができる。例えば、ゴミ箱を汚さないようにするためにレジ袋は非常に使い勝手がよい。そのレジ袋が無料で手に入れられないということを不満に思った人は少なくないだろう。

 それでは、レジ袋をタダで配布させないという政策はよくないのか?そうではないと思う。無料のレジ袋が無いという不便さに直面するたびに、プラスチックごみの問題や地球温暖化の問題が頭をよぎる。これらの問題は我々人類が背負って行かざるを得ないとされているもので、それを身近に常に感じるということは悪いことではないと思う。

 ゴミの分別回収というものが各自治体で導入されはじめた時、いろいろな議論が出た。リサイクルを進めるという方針のもとで進められたのだが、その時もどのようにリサイクルに分別回収が功を奏したかという点については具体的な情報が発信されることは少なかった。しかし、興味深いことに分別回収の実施によってゴミの発生量が減少した。分別するという手間をかけなくてはいけないのならば、ゴミをできるだけ出さないようにしようという気持ちになることがこの結果につながったのだろう。

 環境対策の政策というものは生活や産業活動に関わってくるものが多い。数字的に評価するとそれらの政策には正しいものも正しくないものもあるかもしれない。しかし、我々の感覚にいかにその政策が訴えるか、そうした点も含めて評価していく必要があるように僕は思う。

 現状の大量消費社会を未来永劫続けていくのは不可能であることを僕たちは直観的に感じている。そして、それはおそらく正しい感覚なのだろう。それならば社会を変えていかざるを得ない。物との付き合い方を見直していかないと大量消費社会は変わらない。そのことが僕らの生活を不便にすることがあるかもしれない。しかし、多くの場合、「不便=不幸」ではないのではないか。

 今、僕はスーパーマーケットに行くたびにトートバッグを忘れずに持っていく。面倒くさいけども、それはレジ袋なるものが一般的でなかった僕の子供時代には当たり前の行動だった。母親はいつも買い物バッグを腕に下げて、子供だった僕と手をつないで市場に買い物に行った。市場で僕は毎回、仮面ライダーのチューイングガムを一個買ってもらった。母親と市場に行くことは僕にとってとても楽しい時間だった。

 母親の持っていた買い物バッグの模様をあれから50年以上、経った今も僕は覚えている。そして、その模様は市場に行ったときの空気や雰囲気を僕に思い起こさせてくれる。懐かしいやさしい気持ちになる。 不便さというものは悪いことばかりではないのだろう。