びた ―スマートフォンと僕―

 新しい機械が次々と開発され、我々の身近な生活の中にも導入されてきている。そのため便利になって幸せになるはずが、最新技術を手にした僕たちは幸せというよりも時代に遅れていないという安心を得ているように感じる。便利になるということはそういうものなのだろうか?

 ドラえもんという漫画がある。僕も小学生の頃、夢中になって読んだ。未来からやってきたドラえもんがのび太という小学生にいろいろな未来の道具を渡す。未来の道具は小学生の僕には思いもつかないようなすごい機能を持ったものばかりで、ワクワクして読んでいたのを覚えている。この漫画のストーリーにはパターンがあった。のび太が何かに困っているとドラえもんはそれを助けようと未来の道具を出す。のび太は喜んでその道具を使うのだが、最後にはうまく使いこなせず、道具に振り回され失敗してドラえもんに何とかしてくれとお願いする。

 例えば「暗記パン」という道具があった。テスト前に勉強がうまく進まずに困っているのび太にドラえもんは暗記パンという道具を渡した。暗記パンというのは教科書やノートにおしつけるとそこに書いていることが写り込み、それを食べるとパンに写した事柄が記憶できるという代物だ。のび太はテストの直前にそれを使い、せっせと食べて、さぁテストを受けに行こうというときにトイレにいってウンコとして排泄してしまう。ウンコにして出してしまうと暗記パンで記憶したことも忘れてしまうというオチだった。

 ふと考えてみるとこうしたドラえもんのストーリー展開とよく似た状況に僕たちもはまり込んで、機械に振り回されている部分があるのではないだろうか?近年、将棋のプロ棋士がコンピューターソフトを用いて、次の手をカンニングしたのではないかという問題がマスコミで大きく取り上げられた。結局、そうした反則事例は無かったということで収束したのだが、僕のような長年の将棋ファンをがっかりさせた出来事であった。身近なところでも、スマートフォンやコンピューターで詐欺に合ったり、ふと何気なくインターネット上でつぶやいたことが他人を傷つけたり、大きな問題になったり、と機械に振り回され、技術のせいで困った事態に陥った人も少なくないだろうと思う。僕は工学博士であり、機械の技術に世間一般の人々よりも詳しいはずだ。しかし、最新テクノロジーはあまりにも分野のすそ野が広く、その発展が急であるせいか(それが言い訳であることは認めざるを得ないが)、ついていけずにアップアップしているというのが正直な自分の現状である。きっとそうした事態は僕だけに訪れているものではないだろう。僕は、自分を含めて人間の「のび太化」が進んでいると感じている。

 もちろん、こうした技術革新は負の側面ばかりでなく、我々の生活の質の向上に役立っている部分もある。しかし、僕がドラえもんを読んでいた時代と今を比べるとなぜか少なくとも自由が少なく、窮屈な時代になってきたような気がする。それは技術の進歩のせいだけではないとは思うが、その一端をとくに情報技術の飛躍的な発展が担っているということは言えるように思う。だからと言って、技術を否定する気はない。ただ、技術と人間の関係についてドラえもんとのび太が繰り広げてきたたくさんのコメディーを僕たちが社会で実写化しているようなそんな気はする。それはコメディーで済めばいいが、済まない場合も少なくないだろう。それがなんだか漠然と恐ろしい。

 僕たち人間は間違える動物だ。その間違いが面白かったり、悲しかったり、良かったり、悪かったりする。間違いだらけの社会の中に僕たちより間違いが圧倒的に少ない機械が入ってきて、僕たちは混乱している。間違いを間違いとして認め、反省したらまた再チャレンジする。そういう繰り返しで人類は進歩してきたのではなかったか?そこに間違わない機械が入ってきて、間違えることに対して社会における罪と罰が重くなった、そんな気がする。かといって間違いを怖がって、何もしなければ人類の進歩はやはり無いだろう。そして間違えて再チャレンジするという行為を人工知能や機械に託すとしたら、私達の生活と技術の乖離というものがますます進み、便利だが幸せでない世界というものがより深まりを持ってくるのではないだろうか?そんなことを心配してしまう。

 今の世界で「ドラえもん」という存在は誰が担っているのだろうか?子供にスマートフォンを買い与える親なのだろうか?僕自身はあまりドラえもんにものび太にもなりたくない。そんな僕の思いなどは無視して、技術はどんどんと進み続け、近い将来には人工知能を積んだドラえもんがそこら中で跳梁しているのだろう。そして人類は「総のび太化」するのかもしれない。