におい ―鼻が覚えていること―
他人の家に行くと、それぞれ独特のにおいがする。それは嫌な臭いではなく、その家の持ついろいろな特徴を反映した臭いだと思う。祖父母の家も独特のにおいがした。それは少し薬臭く、しかし温かでやさしいにおいだった。子供の頃、祖父母の家に行くのは好きだった。大概、従兄弟たちも来ていて、いっしょに遊んだ。家のとなりにある溝に従兄弟とウシガエルを探しに行ったりした。
まだ僕が幼稚園児だった頃だと思う。夏に祖父母の家に一週間ほど泊まることになった。その家の近くにあったスイミングスクールに通うためだ。母親はおそらく出産のため入院していたのだろう。僕は一人で祖父母にお世話になることになった。小さかった僕が無事にプールに着くのか心配で僕のあとを祖母は隠れて毎日追いかけていたそうだ。スイミングスクールには知り合いが一人もおらず、そして自分がプールのどこに行けばいいのかすらわからず、僕は怯え、混乱していた。そして、なんとか自分のグループを見つけても今度は泳げない。練習時間が終わり、塩素くさい更衣室で毎日、泣きそうになっていた。家に帰ると祖母は満面の笑みで僕を迎え、ごちそうを作ってくれた。幼い僕がどれだけ安心したことか。
不思議なものだ。大人になって環境の研究者になって、プールの水の消毒についての論文を読んだりしている。あの塩素の匂いがどうしてするのか説明できる。そして、祖母の家のにおいをはっきりと思い出せる。祖母の僕を見る優しい微笑みが頭に浮かんでくる。
祖母も亡くなり、今はその家も無い。スイミングスクールもプールさえも無くなった。
しかし、においとともに思い出は生きている。