たいむかぷせる ―大阪城のお堀に記録された環境の歴史―
僕は大阪で育った。小学校、中学校、高校と大阪の公立学校を卒業し、大学、最初の就職先まですべて大阪府内だった。
大阪に住んでいる多くの人がそうであるように僕は大阪弁で話す。僕は大阪弁が嫌いではないが、たまに依頼される講演会で使うのはどうかと気が引ける部分もある。関西地方以外の人やそれほど日本語が得意でない外国出身の方には理解しにくくなってしまうのではないかと心配なところもあるからだ。そうした想いから、ある時、東京で講演をすることになった際、本当に苦労して標準語で話をした。なんとか講演も終わり、ほっとして控室に戻ると、僕を呼んでくれた主催者が
「いやあ、先生の大阪弁はいつ聞いても楽しいですね。」
と嬉しそうに言いに来てくれた。大阪弁を抜いて話すことなど僕には無理なようだ。それ以来、僕は標準語で話そうという努力を放棄している。
僕は大学を卒業後、環境の研究所に就職した。研究所は大阪城からそれほど遠くない鶴橋という焼肉で有名な街にあった。研究所の先輩方はジョギングが好きな方が多く、影響を受けた僕は昼休みごとに研究所の周辺をジョギングした。週に何度かは大阪城方面に向かった。ちょうど真田幸村が構えた陣、真田丸があったと言われる玉造駅の付近まで走ることも少なくなかった。また、研究所の周辺には真田幸村が徳川軍とたたかった茶臼山や真田幸村の終焉の地とされる神社もあった。現在、僕は真田氏の本拠地であった上田市にある大学に勤めている。真田氏と僕は不思議な縁があるようだ。
真田氏をはじめとする豊臣軍と徳川軍が争った大阪城は言うまでもなく大阪のシンボルだ。子供のころからお城と言えば大阪城しか見たことがなかったので、お堀の規模や天守閣の大きさは大阪城が僕の基準となっている。そのためか、他のお城を見ると小さいなあという感想を持ってしまうことが多い。
その大阪城を舞台とした環境の研究をしたことがあるので紹介したい。それは大阪城のお堀の底の泥(底質)を使った研究だ。
大阪城は内堀と外堀に囲まれている。どちらも大きくて深い堀だ。あの堀を前にして、堀の中に入ろうという人はあまりいないだろう。実際、外堀の底の泥はこれまで人の手が入った記録がない。すなわち外堀の泥は城が徳川家によって創建された1600年から、現在にいたるまで手つかずの状態で残っていると考えられる(なお、現在、存在している大阪城のお堀は豊臣家ではなく、徳川家がつくったものであることが知られている。)。外堀は外部の川などとの水の出入りが無い(堀の水が枯れたことがないと言われている。おそらく地下から水が湧いているのだろう。)。その底にある泥がどこから来たのかと考えるとその多くは大気から降下してきた物からなると予想される。そうすると、その泥の層を崩さないように最も泥の深いところから浅いところまでを取った泥の柱は、1600年代から現在まで大気を漂ってきた塵が降り積もってできたものと考えることができる。それならば、そのサンプルは1600年代から現在まで、およそ400年間に渡る大阪の大気の環境を記録しているのではないだろうか?
大阪市立大学の吉川先生はそのように考えられ、大阪城の外堀から泥を取る許可を得られた。そして、お堀に筏を浮かべ、泥を採取された。この泥を乾燥させ、深さごとに区分した。深さによる年代の特定は近畿大学の山崎先生が担当し、分析を行ったところ(泥の年代測定法については「解説」の項を参照ください。)、その最深部が1600年代初頭、そして最も上部が1970年代であることが分かった。試料を採取したのが2000年だったので、1970年以降の泥も手に入ることを期待していたのだが、泥がその重さできっちりとパックされていなかった(固められていなかった)らしく、サンプリング時に散逸してしまったようだ。ともあれ、ほぼ400年分の大阪の大気中の降下物からなる試料をゲットすることができたのだ。
この泥の柱(コア試料と呼ばれる。)を数cmの厚さに輪切りをして、年代ごとに試料を分けた。それぞれの試料について大気汚染物質の濃度を測定することにより、その物質が1600年代から1970年代の間のそれぞれの時代に大阪の空にどの程度、存在していたかが分かるだろう。すなわち、大気汚染の歴史を見ることができる。
大気汚染物質として多環芳香族化合物というベンゼン環が二つ以上くっついた形をしている化学物質のグループを選ぶことにした。このグループは物質が燃えた時、出てくる煤に多く含まれている事が知られていて、火災時の煤、車の排気ガスなどにも含まれている。さらに多環芳香族化合物の中には発ガン性や変異原性を示す物質もあるので、大気汚染物質の一つのグループとして知られている。吉川先生と共同研究をさせていただくこととなり、吉川先生からいただいた大阪城のお堀から得られた泥を輪切りした試料について、それぞれ多環芳香族化合物の濃度を測定し、その歴史的な変化を見て、400年にわたる大阪の大気環境の変遷を考えることにした。
大阪市は1600年代から10万人を越える人口を有する大都市であり、1800年には人口40万人を超え、現在では200万人を越える人が生活している。大阪城は大阪市の中央に位置している。この日本を代表する都市の江戸時代から現在までの大気環境を火の使用という産業とかかわりの深い活動により発生する多環芳香族化合物という物質を使って再現することにした。
結果は次のようだ。江戸時代は多環芳香族化合物の濃度は低レベルであった。伏見鳥羽の戦いが幕末にあり、大阪城もその舞台となったが、多環芳香族化合物の濃度に大きな影響は見られなかった。20世紀に入り、産業革命がはじまり、大阪において産業活動がさかんになった。多環芳香族化合物の濃度は上昇傾向が見られた。大阪市は1932年に日本で最初に粉塵に関する条例 (煤煙防止規則(府令))を出した。大阪市が環境に対する先進的な考え方を持っていたことを示すとともに当時、大阪の大気が粉塵により汚染されていたということもわかる。
日本では一般的に産業革命から1970年代まで大気汚染が悪化し、大気汚染防止法の制定後 (1968年に制定、1970年に改正)、汚染レベルが下がる。多環芳香族化合物の濃度レベルについても同様の変遷が見られると考えられる。こうした結果が大阪城において得られると予想していた。
しかし、予想と違うパターンが見られた。1945年に大きなピークが見られたのだ。1945年といえば、第二次世界大戦で大阪が焼夷弾による空襲を受けた年だ。空襲による大気環境汚染の影響が大阪城のお堀の泥に記録されていたのだ。さらに、この結果は大気汚染がもっともひどいとされていた1960年代後半よりも戦争時の影響のほうが大きかったことを示唆している。
本当に大阪において第二次世界大戦が大気環境に最もインパクトを与えたのだろうか?大阪城周辺は砲兵工廠という軍需工場があったので、特に激しい空襲にさらされたことが知られている。それゆえ、大阪城のお堀に特異的な結果である可能性がある。そこで、大阪城から南に7 km程度離れ、周囲での空襲があまり記録されていない長池というため池に着目した。この長池でも大阪城のお堀と同様に泥を採取し、年代測定を行ったのち、深度ごとに多環芳香族化合物濃度を測定した。大阪城のお堀の泥と同様に第二次世界大戦で多環芳香族化合物の濃度が最も高いレベルを示した。すなわち、やはり大阪市内においては、第二次世界大戦による空襲が大気環境にもっとも大きな影響を与えたと考えられる結果となった。
都市における大気環境汚染の歴史的な変遷を把握することは環境汚染の現状を理解し、将来的な対策を検討するうえで役に立つだろう。この研究では大阪市域における溜池の底に積もった大気降下物の層を乱さずに採取した泥の試料をいわば「タイムカプセル」として用い、試料に記録されている大阪における大気環境の歴史を解読することができた。
結果、大気環境に最も大きなインパクトを与えたのは多環芳香族化合物などの環境汚染物質濃度の経年変化から、戦争であると考えられた。 僕は社会学者でも政治学者でも無い。ただの環境研究者にすぎない。そんな僕が社会についての考えを表明することはおこがましいと思う。でも戦争が環境に最も悪い影響を与えるから戦争はしてはいけないということは環境の研究者として言ってもいいのではないかと思っている。