ょくどう -成長するということ-

 夕方、歩いていて晩御飯のにおいがどこからか漂ってきたような時、思い出す店がある。それは駅から大学に続く坂道の途中にあるボロボロのすぐに壊れてしまいそうな古い小さな食堂だ。なぜか店先に大きな狸の焼き物が置いてあった。

 学生の頃、研究の途中、夕ご飯時になるとぶらっとこの店に行った。店はいつも学生で溢れていた。順番を待って店に入り、なんとか椅子に座るとメニューを店のご主人に言う。壁に直接、チョークのようなものでメニューと値段が書かれていた。それからは料理が出てくるのをひたすら待つことになる。

「この角打ちにはびっくりしたね。」

 将棋部の人なのだろうか?頭の中にある将棋盤で駒を動かしているようで

「3五桂で同銀ね。」

などと言いながら二人でどんどんとプロ棋士の試合を再現している。難しそうな数式を細かい字でひたすらノートに書いている人や持ってきた分厚い英語の本を読んでいる人、みんな思うままに自分の時間を楽しそうに使っていた。僕はといえば、そこでとにかくぼんやりとしていた。頭を空っぽにして時間が過ぎるのをただ感じていた。

 注文したメニューが出されるまで、とにかく待たされた。ひどいときは1時間以上待つときもあった。しかし、誰も文句を言わずのんびりと待っていた。店はご主人と奥さんの二人きりで必死で切り盛りされているのをみんな知っているからだ。

 出される料理は量がびっくりするほど多く、値段も信じられないほど安かった。そしてどのメニューもおいしかった。お金を支払うと

「ありがとうございー。」

とご主人がつぶやくように言う。その声を聴きながら店を出て僕は研究室に戻って研究を再開した。頭がリフレッシュされて、不思議とその後、研究を頑張ることができた。

 僕のお気に入りは『肉すき鍋』というものであっさりしたすき焼きといった感じの味付けでとにかくおいしかった。一人用の小さい鍋を机の上にぽんとおいてくれる。いろんな具が入っていてしっかりとした鍋なのに200-300円くらいだったと思う。バブルで沸いていた当時においていろんなことが心配になってしまうような値段だった。ほかにも大きすぎると思うほど豪快な卵焼きやサンマの焼いたものやどのメニューも全部おいしかった。今、こうして書いていても口の中に味がよみがえってくる。

 思い出すと涙が出そうになるくらい温かくて大切な空気がそこにあったように思う。その店で毎日のように晩御飯を食べたのは自分にとっては大切な思い出だ。おそらくあの店で僕と同じようにごはんが出てくるのを待っていた人は今、僕と同じようなことを思っているのではないかと思う。

 もちろん家族や仲間や先生やいろんな人たちの助けがなければ僕は成長できなかった。そうした人たちに僕は元気づけられ励まされ、何とか社会で生きていけるようになった。そしてこの店も僕の中の大切な何かを形作ってくれたのではないかと今になってしみじみ思う。  

 この前、仕事が母校の近くであったので、あの坂道を上がってみた。やはり、店はもうなかった。狸の置物もどこにもなかった。大学を卒業して20年以上経つ。時間が過ぎるということはそういうことなのだろう。大学に特に用事もなかった。僕はきびすを返し、ただ坂道を下って行った。