くるま ―クールな街でふるえている―
三泊四日での出張だった。東京の展示場で自分の研究を紹介するという仕事だった。日々の業務から解放されてのんびりできるかと思って引き受けたが、楽しくない。展示場での仕事自体は楽しかった。自分の研究に興味を持った人が多数、声をかけてくれた。問題は仕事が終わった後だ。会場の近くに宿をとったのだが、街がさみしいのだ。埋立地に無数の美しいビルが建っている。この街はビルの街だ。とてもクールだ。かっこいい。そして寒い。研究紹介の手伝いのために来てくれた学生とお酒を飲みながら食事をしようと楽しみにしていた。しかし、わいわいがやがやとした少し汚い、しかしおいしい物を出してくれるような居酒屋がここにはなかった。結局、チェーン店のとんかつ屋さんでとんかつ定食を食べた。
ビルの隙間を通り抜ける風は強いが、長野県で暮らしている僕にとってこの地の気温の低さは大したことがない。人間の温もりが感じられなくて寒いのだ。見知らぬ人が出会い、挨拶をかわし、去っていく。そうした何気ない人間が何千年も続けてきたであろう交わりがこの街ではほとんどないように感じられたのだ。
そういうのが鬱陶しくなくて心地いいという人もいるだろう。そう感じる人のほうが今は多いのかもしれない。でも、つらいとき、結局僕らが最後に求めるのは何気ない会話だったり、やさしさや温もりの交換だったりするのではないだろうか?僕たちを本当に救ってくれるのは人との交わりではないだろうか?生きることのつらさに一人で向き合うのは本当に勇気のいることだと思う。ありったけの勇気をもってクールな街をクールな人々が生きているのかもしれない。
街を走る道路には無数の車がロボットのように途切れることなく、走っている。美しいビルの間を車たちは淡々と走り続ける。それは未来をどうしてか感じさせる。ずっとずっと未来永劫、車はこの道を走り続けているのだろうか?僕らが夢見た未来とはこんな冷たい世界だったのだろうか。人間はクールさをどんどん極めていくのだろうか?
かっこ悪い、どんくさい、人の臭いのする世界でお互いの失敗を笑い合い、助け合い、フォローしあいながら、僕は生きていきたい。それしか不安を埋める手が僕には無いからだ。
ゴジラの映画でゴジラは東京の新しいビルをどんどんと破壊していく。
僕がゴジラの映画に興奮するのは、もしかしたら僕の心の奥にしまいこんである不安が共鳴するからなのかもしれない。